インドでLGBTの権利向上を訴えるパレード開催

インドのニューデリーで2016年11月に、LGBTの権利向上を訴えるパレードが開催されました。
このパレードは毎年行われています。

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パレードを行うことで、LGBT当事者が差別に直面していることを強調し、同性愛行為を犯罪とする法律の廃止を要求し続けています。

パレードに参加した33歳の建築家、サウラフ・ジャイン(Saurav Jain)氏は、「多くの変化がある」と語っています。
一方で、活動家のリトパルナ・ボラ氏は、「ヒンドゥー教のナレンドラ・モディー首相政権は同性愛者の権利を支持していない」と語っています。

インドでの同性愛をめぐる問題

ここ10年程で、同性愛はインドの特に大都市では、ある程度受け入れが進んできました。
多くのバーにはゲイの為の時間があり、いくつかの意識の高いボリウッド映画ではゲイの問題に取り組んでいます。

しかし、法律上では同性愛は違法となっています。
2009年にニューデリー高等裁判所が同性愛行為を犯罪とする刑法第377条は違憲であると宣言しましたが、2013年に、最高裁判所が第377条の改正または廃止を司法ではなく、議会に委ねることを決定しました。
現在、同性愛行為は最大10年間懲役となっています。

まだまだ「同性愛は恥知らず」と考える人も多く、LGBT当事者が暮らしやすい社会にはなっていないのが現状です。

参照
http://www.voanews.com/a/gay-rights-activists-march-in-annual-new-delhi-parade/3613375.html

香港でLGBT団体支援のための「虹色のライオン像」が出現

LGBTのシンボルカラーである6色のレインボーは、今や世界中でパレードや様々な活動でつかわれています。
香港でこのレインボーを使った像が出現し、賛否両論になっています。

※レインボーフラッグの起源についてはこちら

LGBTのシンボル「レインボーフラッグ」が6色になった理由

1対のライオンの像

香港のHSBC(汇丰銀行)という銀行の前には、一対のブロンズでできたライオンの像が佇んでいます。
この銀行はとても歴史のある銀行で、ライオンも80年以上そこにありました。

2016年12月より、同性愛の団体を支持する目的で、ブロンズのものとは反対の出入り口の前に虹色のライオンが出現しました。

ブロンズのそれぞれの像は、“勇気”と“繁栄”をそれぞれ象徴していました。
今回は色が異なるということで、その象徴するものも、“誇り”と“団結”にそれぞれなっているということです。

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参照:http://www.guancha.cn/local/2016_12_07_383275_1.shtml

→page2
香港のLGBT事情とは?

日本でも古くからあった男色という文化は同性愛なのか?

同性愛者という概念が誕生したのは100年ほど前と言われていますが、それ以前にもいわゆる同性愛は存在していました。今回は日本の歴史に目を向けてみようと思います。

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男色という文化

まず初めに、同性愛といっても昔は女性の地位が高くなかったため、女性同性愛の記述は基本的に残っていません。そのため今回の記事も男性同士についてとなります。

男色とは男性同性愛を表す言葉で、同性間性交渉は男色行為と呼ばれます。ただし、男色行為は基本的に成人男性と少年の間で行われています。

日本において男色行為は古くから行われていたとされています。
法律で同性間性交渉を禁止するものは特になく、公然と行われていたようです。織田信長や足利義満、武田信玄など歴史上有名な武将も男色行為をしていたそうです。

男色行為の理由として最も多く説明されるのが、女性禁制の環境があったからと言われます。女性がいない環境での生活や、女性との性交渉を禁止されている中で、少年と性交渉をすることで欲求の解消をしたと言われています。

日本以外での男色と衰退

男色行為は歴史的に海外でも行われていました。古代ギリシアや『テルマエ・ロマエ』の舞台古代ローマでも少年愛として存在したようです。

ヨーロッパでは、子どもというのは男女に分化する前の存在であり、成人男性が少年に対して抱く欲求を同性愛と捉えていなかった、という見方もあるようです。

しかし、これらヨーロッパ地域で段々と男色行為は廃れていきました。その理由が、キリスト教の浸透です。

伝統的なキリスト教の考えでは、同性間性交渉を罪とみなされています。そのため、キリスト教がヨーロッパ全域に広まって以降は、少年愛は徐々に廃れていきました。
日本も、キリスト教の考えが入ってくるにつれて、段々と男色行為に対する罪の意識が芽生えていったようです。

男色=同性愛?

上でも何か所か同性愛という記述をしましたが、私は男色や少年愛を同性愛とはあまり考えていません。というのは、性的欲求を満たす性交渉と、好きになる、愛情を抱くというのは別物として考える必要があるからです。

実際に男色を行っていた多くの武士は女性と結婚し、子どもを授かっています。彼らは確かに性交渉の相手として同性の少年を見てはいましたが、そこに愛情や結婚とのつながりがあったのかどうかは分かりません(好きな相手と結婚するというのも最近の概念ですが)。

そのため、武士やローマ皇帝がゲイ、またはバイセクシュアルである、と言い切ってしまうのは難しいと思います。
しかし歴史的に見て日本は同性間の愛情や性交渉について厳格ではなかったということですね。

参考
Wikipedia男色
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B7%E8%89%B2
Wikipedia日本における同性愛https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E5%90%8C%E6%80%A7%E6%84%9B

同性愛は病気なの?後編 LGBT当事者orLGBTアライによるレポート シリーズ

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LGBT当事者もしくはアライによる「セクシュアリティ」に関するレポートを紹介するシリーズ。
今回は、「同性愛が病気か」というテーマのレポートです。

前編はこちら「同性愛は病気なの?前編」

自然主義的誤謬

大切なのが「自然主義的誤謬」という哲学の領域における考え方です。たとえば著名なオランダ人動物行動学者のフランス・ドゥ・ヴァールはその著書『利己的なサル、他人を思いやるサル―モラルはなぜ生まれたのか』(草思社)の中で次のように述べています。

自然から倫理規範を引き出そうとするのは,とても危険なことだ。
生物学者は物事の成り立ちを説明したり、場合によっては人間の性質を詳しく分析するかもしれないが、行動の典型的な形や頻度(「正常」かどうかを統計的な意味で判断する)と、行動の評価(道徳的な判断)のあいだには、確かな関連性などないのである。

自然から何らかの規範を引き出そうとする試みは、「自然主義的誤信」(引用者注:「自然主義的誤謬」のこと)と呼ばれており、いまにはじまった話ではない。
物事の状態を表す「である」を、物事のあるべき姿を表す「であるべきだ」に移しかえることは不可能なのだ。

『利己的なサル、他人を思いやるサル―モラルはなぜ生まれたのか』(草思社)
フランス・ドゥ・ヴァール著
pp.69-70

同性愛と生物学

このような考え方は18世紀の哲学者デイヴィッド・ヒュームもその著書『人間本性論』の中で言及していますし,社会学者マックス・ヴェーバーの「価値自由」の考え方にも通じるものです。

確かに今のところ同性愛男性に特有の脳の解剖学的・神経学的特徴は特定されていません。

たとえば,異性愛男性・女性・同性愛男性の間で性差があるとしてS. LeVayにより報告され注目された脳部位として視床下部間質核(INAH:interstitial nucleus of the anterior hypothalamus)の中のINAH3という組織がありましたが、その後W. Byneらによって行われた追試では統計的に有意な差は確認されず、現在に至るまで追試もなかなかあがっていないのが現状です。

しかしながら、こうした生物学的研究の現状をもって同性愛が病気ではないとするのは、同性愛男性に特有の解剖学的・神経学的特徴が見つかったとき再び同性愛が病気だと見なされる危険性を残してしまうことでもあります。

大切なのは何か同性愛男性に特異的な解剖学的特徴が仮にあったとしても、それをもって同性愛が病気であるとか異常であるという結論が必然的に導き出されるかのように考えるのは誤りであるということです。

また、双生児法をその基本的方法論に据える行動遺伝学の研究によって、性的指向の決定に遺伝的要因が関与していることは既に示されていますが、この事実によって同性愛の正常/異常を決定することも同様にできません。(この遺伝子があれば100%ゲイになる,という遺伝子が存在するという意味ではありません。)

そしてこれは同時に同性愛を擁護する際にも注意しなければならないことです。
たとえば時折見かける議論として、動物など自然界でも同性愛は多く存在しているのだから同性愛は異常ではない、というものがあります。

実際、確かに「同性愛」行為はピグミーチンパンジー(ボノボ)やヒツジなど多くの動物で確認されていますが、だからといってその事実によって同性愛は「正常」である、という結論を導くことはできません。
「自然主義的誤謬」を犯しているという点では同じなのです。

先に引用したドゥ・ヴァールの文章にも述べられている通り、ある行動や形質が「正常」か「異常」かを定める倫理的規範が自然から必然的に導き出されることは決してありません。
しかし、こうした「自然主義的誤謬」を犯している議論は、同性愛に肯定的なものも否定的なものも含め世の中にたくさん流布しています。

みなさんも同性愛に関する議論を目にしたとき、それが「自然主義的誤謬を犯していないか」という観点から眺めてみてはいかがでしょうか。

同性愛は病気なの?前編 LGBT当事者orLGBTアライによるレポート シリーズ

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LGBT当事者もしくはアライによる「セクシュアリティ」に関するレポートを紹介するシリーズ。
今回は、「同性愛が病気か」というテーマのレポートです。

同性愛は異常?

2016年6月に博報堂DYグループのLGBT総合研究所によって実施された調査によるとLGBTを含むセクシュアルマイノリティに該当する人は8%にも上るそうです。

セクシュアルマイノリティの人々に対する認知は広まりつつありますが、そうした動きの中で否定的な発言があることもまた事実です。

たとえば昨年11月には神奈川県海老名市議による同性愛は「異常動物」であるとのツイートや、同年12月の岐阜県議による「同性愛は異常」とのヤジが非難を集めました。

こうした事例に象徴されるように、同性愛者を含むセクシュアルマイノリティの人々に対しては、「生物学的」に「異常」であるとの主張によって反発の声が上がることが少なくありません。

同性愛の病理化/脱病理化

同性愛はかつて「病気」として扱われていた歴史があります。
これはジェンダー研究の領域では同性愛の病理化として言及されているものです。この「同性愛の病理化」の歴史は,1987年に米国精神医学会のDSM-Ⅲ-R(精神障害のための診断と統計の手引き,改訂第3版)から「自我不親和性同性愛(ego-dystonic homosexuality)」が削除され,1992年に世界保健機関(WHO)による国際疾病分類 改訂第10版(ICD-10)からも同性愛に関する項目が削除されたことをもって終わりを迎えました。

では、どのような認識に基づいてこうした同性愛の脱病理化の決定はなされたのでしょうか。

もちろん当事者による運動の影響も大きいですが、たとえば分子生物学者の石浦章一氏は『サルの小指はなぜヒトより長いのか』(新潮文庫)という本の中で、「ホモセクシュアルは病気か」という問いかけに続いて次のように書いています。

これ病気の定義になるんですけれども,病気って何かというと,検証可能な病理像がないといけないんです。ある病気だったら,必ず脳のこの場所にこういう症状が出るっていう検証可能なものがなきゃいけないわけです。

…ところが,この検証可能な病理像は,…ホモセクシュアルの人にはない。…つまり,病気という定義には明らかに当てはまらないということで,このホモセクシュアルが病気かっていう議論は,現在ではノーっていうことになっています。

『サルの小指はなぜヒトより長いのか』(新潮文庫)
石浦章一著
pp.240-241

しかしこれで本当に良いのでしょうか?

確かにたとえば男性同性愛に限定すると、現在は同性愛男性に特異的な脳の解剖学的・神経学的な特徴は明確には特定されていません。
その限りでは同性愛が病気として扱われることもないでしょう。

ただ、今後研究が進んで器質的な要因が明らかになったときは,やはり同性愛は病気だということになってしまうのでしょうか?

-後編につづく-

「LGBTは社会で許容されるべきではない」93%の人がYESと答えるインドネシア

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「LGBTは社会で許容されるべきではない」93%の人がYESと答えるインドネシア

アメリカのピュー研究所が2013年に発表した「ホモセクシュアリティーに対しての寛容度調査」内の「ホモセクシュアリティーは社会で許容されるべきか」という質問で、90%以上が「NO」と答えたインドネシア。
なぜインドネシアにはこのような考えを持つ人が多いのでしょうか。

インドネシアはイスラム教徒の人口が世界最大の国であり、国民のほとんどがイスラム教です。イスラム教では同性愛が禁止されていることから、ゲイやレズビアンなど同性愛者に対する世間の目は厳しく、LGBTの存在はまだまだ社会に受け入れられていません。

さらに、2016年からLGBTなどのセクシュアルマイノリティ(性的少数者)に対する非難や攻撃がますます加速していることが問題になっています。

インドネシアで最も強固にLGBTに厳しい態度を取るのはスラム組織を統括する「インドネシア・ウラマ評議会(MUI)」です。彼らはその宗教上の理由から、LGBTを許容することはできないとしています。

彼らを含むLGBT反対派が今、起こしているのが、刑法改正のための裁判です。
「成人の同性間の同意に基づく性行為を犯罪化し、最長5年の禁固刑」という内容を刑法に追加することがその目的。この法律が可決されれば、現在法律レベルでは規制されていないLGBTが正式に国家の規制の対象となってしまいます。

インドネシアのLGBTへの差別は様々な形で行われています。
2016年1月には、イスラム防衛戦線と呼ばれる過激派グループが、インドネシアの大都市であるバドゥンの宿泊施設に、同性カップルを「発見」したとして襲撃をかけました。建物を襲った後、同団体は「レズビアンとゲイは我々の地域に入るな」という趣旨の文言を書いた旗を掲げ、LGBTへの明確な差別を示しました。

暴力的ではない差別も無視することはできません。インドネシアの放送監視官からは「検閲令」が出されました。それによって、LGBTの人々を正常なものであるとする番組の放送が禁止されました。
また、インドネシア通信情報省がLINEのアプリ内で販売されていたLGBTに関するスタンプを削除するよう申請。LINEはこれを受けて削除を行いました。

精神科医の医師会がLGBTを「精神疾患であり、矯正すべきもの」と発言したころから、LGBTは正常ではないという考えがさらに拡大。
若い母親向けに「自分の子供がどうしたらゲイにならないか」というセミナーも開催されています。

インドネシア政府は、こういった事態にどのような対応をしているのでしょうか。
現政府は、LGBTに関して「LGBTの人々は人権を持つインドネシア国民である」という見解を持っています。しかし、決してLGBTについて寛容なわけではありません。
ルフット・パンジャイタン政治・法務・治安担当調整相は「LGBTは染色体の病気であり、治療が必要である」といった発言をしており、政府は反LGBT団体の過激な差別行動には一切の沈黙を保っています。

こあせんせーは先日TEDで「子ども達が成し遂げたバリのレジ袋廃止運動」を観て大変感銘を受けました。そんな素敵な人々がいるインドネシア。
LGBTの人たちも暮らしやすい社会になってほしいな、と心から思いました。

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この記事を書いた人

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こあせんせー
早稲田大学法学部卒のストレートアライ。
時事ネタ、法律関係が得意。趣味は将棋とモノポリー。